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2023年年頭あいさつ――人口減少時代を歴史に学ぶ

投稿日: | 投稿者:生田 明子

師走となり、この年頭のあいさつの記事を書いている。コロナ禍の収まりはいつ来るのだろうかと日々思うなか、11月10日に日本総研より発表された2022年の出生数の数字が目に入ってきた。

大方の予想どおり2022年の出生数は初めて80万人を下回る見込みだという。このまま少子化が進むと年金や医療など現役世代が支える社会保障制度が揺らぐし、そもそも社会を支える働き手も減り、経済の成長力、ひいては国力も鈍化する。

私はよくセミナーや商談で「20年後の二十歳の人は何人ですか?」という質問をする。いきなりの問いかけにキョトンとされることが多い。統計データなど気にしてないのが一目瞭然だ。この場合の答えは正確に「80万人を下回る見込み」というような数量である必要はなく「今年生まれた赤ちゃんの数」がもっとも無難な答えだ。

今年生まれた赤ちゃんが80万人なのだから、20年後の二十歳の人は80万人なのだ。厳密なことを言えば、事故や病気で亡くなったりする人もいるだろうし、海外への移住や留学などでの減少、あるいは、海外からの移住や留学などでの増加という要因もあるが、その割合はわずかである。基本的には今年生まれた赤ん坊の数が、20年後の二十歳の人の数だ。

今年の二十歳の人の数は20年前にはわかっていたことだ。今さら、出生数が減った、危機的だと政府も報道も言うが、そもそも子どもを産みそうな20代、30代の人口減少は、20年前、30年前にわかっていたことだ。「子どもを産み育てやすい環境整備が急務だ」と書いているマスコミもあるが、手垢のついた表現という他ないだろう。合計特殊出生率についても、2005年の1.26を最低値として一度は改善傾向にあったが、2015年以降は再び減少に転じてしまっている。子どもを産みそうな世代の減少を補えるほどにはなっていない。

いずれにせよ、20年後には、子どもを産みそうな世代はさらに少なくなることが確定している。日本は人口減少時代に突入したのである。

実は日本の人口が増えなくなったことは初めてではない。徴税の必要からお寺などによる「宗門人別改帳」が整備された結果、江戸時代以降、わりと正確な数字が推計できる。下記は、おもな時代の人口の数値である。

出来事 推計人口
(万人)
出典
1603 江戸幕府成立 1,227 参議院資料「歴史的に見た日本の人口と家族」
1716 享保の改革はじまる 3,128
1868 明治維新 3,330
1989 平成元年 12,274 日本の将来推計人口(平成29年推計)
2021 一昨年(令和2年) 12,510 総務省統計局

このデータを「江戸前期」「江戸後期」「明治、大正、昭和」「平成、令和」という時代区分に分けた場合の人口増加の割合を計算すると以下のようになる。

江戸前期(1603~) 1,227万人 → 3,128万人 112年間で2.55倍
江戸後期(1716~) 3,128万人 → 3,330万人 151年間で1.06倍
明治、大正、昭和(1868~) 3,330万人 → 12,274万人 120年間で3.69倍
平成、令和(1989~) 12,274万人 → 12,510万人 32年間で1.02倍

江戸前期は人口爆発期であった。関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、江戸に開府してから100年余は、戦乱期から安定期となり、3,128万人に達した。兵農分離がいっきに進み、就農に専念できたし、戦乱で田畑が焼き払われることもなくなった。新田開拓が進んで農業生産力が著しく増加したのだ。この結果、食糧生産が増えて養える人口が増え、人口が増えた結果さらに耕地面積を増やせるという好循環が生まれた。働き手を求めて多産傾向にもなった。この好循環の果てに「元禄」と呼ばれる華やかな時代がこの江戸前期の最後に登場する。

しかし、この元禄を過ぎたころから農業生産力の伸びが止まってくる。当時の土木技術で開墾できる土地がなくなってしまったからだ。さらに、小氷河期とも言われる寒い気候による享保や天明といった飢饉も繰り返され、人口減少の期間もあったといわれる。この状態が、大政奉還、明治維新まで150年余り続いた。これが江戸後期の姿である。

この人口が低迷した江戸後期と現代の日本は様子が似ているという説がある。この江戸後期は、我々が失われた30年と呼ぶバブル後の30年のように、人口増を前提とした経済から大きな政策転換を余儀なくされた。年貢という税収は当然、米作の収量に依存していたので、新田開発が頭打ちになったり、天候不順で生産量が減れば、そのまま減収となったりしてしまう。

農地が増え、藩内の人口が増え、税収が増えた時期は完全に終わった。増える富をおおらかに分け合う時代から、限られた富を奪い合う時代に入ったのだった。100年以上拡大基調だった幕府や各藩はリストラを迫られ、武士の生活は困窮した。

誰もが中学時代の歴史の時間に学んだ「享保の改革(1716~1745年)」「寛政の改革(1787~1793年)」「天保の改革(1841~1843年)」という幕府の三大改革は実はこの農業生産減少と連動した財政再建そのものだ。バブル以降、政府も企業も“改革”を何回もやっているが、まさに歴史は繰り返すということだ。

その人口低迷期の時代、地方の各藩は、貨幣経済の発達もあり、他地域にないめずらしい食べ物や使い勝手のよい道具を販売することで需要を喚起し、藩財政を豊かにしようとした。忠臣蔵で有名な赤穂藩は、浅野家断絶後も、塩の生産に力をいれつづけ、今日でも「赤穂の塩」としてその名前が残されている。

同様に他藩もアイデアのある武士や商人を登用したり、興産奉行を招聘したりして特産品を作ろうとしたりしたのだ。結果を残した興産奉行は引き抜きにあって、全国各地を転々とした。いまでいう経営コンサルタントであり、新事業起業支援コンサルタントだ。今日でも各地に残る「伝統の特産品」が、こんな「人口低迷期の財政再建のための知恵の結晶」というものも少なくない。

長野県飯綱町に移住して、まもなく2年が経つ。飯綱町内だけでなく近隣の自治体からも相談があいついでいる。需要減少、人口減少、抱える問題点はどこも同じだ。対応方法に正解はないが、興産奉行がしていたことをやるしかない。どのように強みや地域資源にフォーカスして、特産品を作ったり、雇用を生み出したりするのか?改めて歴史の本に書かれているのと同じことをしているのだと思う。

需要が増加した昭和の高度成長期ならば、他人がやっていることを後追いすることでも十分にビジネスはできた。競争をすることでブームを作り出し需要全体を膨らませる効果もあっただろう。

だが、現代は江戸後期と同じように人口低迷期、減少期だ。昭和と同じことをするわけにはいかない。しかし、そんな苦労して生み出したものならばこそ、このあと何世紀ものあとの人々にも役立つものだってあるだろう。そんな新たな特産品を見出すことができれば、この地域に長期の利益をもたらすだろう。

ドイツ初代宰相のビスマルクは、「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」といった。歴史に学んで賢者になりたいと思うところである。

どうぞ本年もよろしくお願いいたします。

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